チェック=栄四郎先生
入力者=大坪加代太郎
昭和42年12月5日 朝の御理解
天地の親神様が、教祖の神様に、仰っておられます言葉の中に、「神の言うことを聞いてくれ、その上、神を神と用いてくれ」というところがございますね。
先日あの、親教会の御大祭のときに、(薬院の文雄先生?)の、お説教、そういうことを、軸にした、お説教でございました。神の言うことを聞くと、だけではなくて、神を神と用いてくれ。これは、あちらの、岡山あたりの、方言になるらしいですけれども、こちらの言葉に直しますと、神の顔を立ててくれという意味だそうですね。うちの子供は親の顔を立ててくれると、そういう意味。親の言うことを聞くだけじゃない、親の言うことを素直にはいはいというて言うことを聞くだけではなくてです、親の顔を立ててくれる。と、神様が、教祖の神様の、いわゆる、御信心態度を、褒め称えておられるわけでございますね。ほんとにあの、御伝記を読ませていただきますたんびんに、いたるところにそういう意味での、実意丁寧神信心が( ? )とこういわゆるお道の、信心の、まあお道の信心の看板のようなもの。それが、看板だけではなくてですね、もうほんとに、それが、内容もその通りであることを、あの御伝記の中から、感じることが出来るわけですね。
( ? )の言葉に、犬の肉を、豚の肉で売ると言ったようなその、犬の肉の、豚の肉の看板をかけながらですね、実際は犬の肉を売っていると言った様な、言葉がございますね。なかなか、いわゆる針小棒大。看板というものはなかなか、立派に書いてあるけれども、実際に、まあ商品を買うてみると、看板ほどじゃない、宣伝ほどじゃない、というのが普通ですけれども、教祖の神様の御信心は、もう言葉に出ておるよりも実際に、それを、行じられた、御信心ぶりというものは、もうその言葉以上でございますですね。実意丁寧神信心。ほんとにこの、もう実意丁寧がそのまま神信心になってしまっておられる。ね、信心即生活とこう言われるように、信心と生活というものが、もう一体なものでなからなければ、(ふようもの?)であってはならない。一体のもの。お参りをしておる時、拝んでおる時、お話を頂いておる時には、なるほどなるほどと合点していただきよる、なるけれども、さあ一歩ここを出ると、神の言うことは、もう途中で落としてしまい、自分の良いようにするからおかげはないと、はっきり仰っておられるのだけれど、もう、家に帰ったら、もう商売人じゃけんこんくらいのことは、と言ったようなですね、商売人だからこそ、言うならば、教祖の御教えを、(そのもたいして?)お商売の上に現していきゃあ、おかげが受けられるのでありますけれどもね。
もう一つ、教祖の神様の、御信心のあられ方というものが、神の言うことを聞いてくれ、その上神を神と用いてくれ、と神様が、もう、お礼を申しあげておられるような、金光大神にお礼言うておられるような、これをその中から感じることができます。私どもがね、そこ( ? )ようなあり方にならせていただくときに、私どものこの助かりがあるのですよ。私どもの、ほんとの救いというのは、そこから、救いの手を差し伸べられるのです。神様にお願いをしておって、自分の思うごとする。神様のいうことも聞かん。それを、本当に、おかげを受けていくだけではない、お徳を受けていくという人はです、神様の言うことを聞くだけではなくて、神様を神様と用いていく。神様を現していく。神様の顔を立てていく。
先日の、(15日?)の御大祭の時の、後のご直礼の時です。私のすぐ横に、久留米の総代さん方が2人それぞれで並んでおりました。それで、私にその、もう、先生お宅に参りますとまいります。単純に恐れ入ります。大祭におかげ頂き、この頃、信徒会におかげ頂いておられます、この方は。そしてなるほどなるほど、合楽の御信者さんがおかげ頂きなさるはずだというものを感じました、とこう言うのです。それがそのどういうようなことからかと言うとね、あの信徒会の時に、私どもの御信者さんがたのお話を頂きましたが、もう、一貫して、もう皆さんが仰ることは、もう、二言めには親先生である。私はこげな信心させてもうろたら、こげなんおかげ頂きましたじゃなくて、親先生のお取次ぎを頂いて、親先生がこう仰ったから、こうですと頂いたら、こうおかげを頂いた。親先生のおかげで今日の私どもがございます。いわゆるうちの親先生は、ほんとに神様のようなお方です。ほんとに生神の、お性格を頂かれておるというなら、うちの親先生だろうと言うようなことを、話されたとこういうわけです。
どこ行っても、感じられなかった信徒会の雰囲気というものがです、なるほどあれだけ親先生親先生というて、親先生の顔を立てられるなら、皆がおかげを頂くはずだとこういうわけでございます。確かに、あの時にお話しを、一人一人の話を、思い出させていただきますとそうでございましたもんね。ほんとに私のような者の信心だけれども、親先生の信心で、私が助かっております、私ども一家がございますというような、お話であった。
ほんとに私どもがあの時親先生が、もしおられなかったら、今、私のほうの家はどげんなっておるじゃろうか分かりませんっちいうようなお話しじゃった。これなんかは、言わば、親の言うことを聞いて、おかげを頂いたんですけれども、その頂いたおかげを、親の、言わばつまらん私でございますけれども、私の顔を立ててくださる。
そりゃあもうほんとに難儀なときには、(素直に修行しました。思いも?)しました。そしたら、こういうおかげを頂きました、というだけではないのですね。
親の顔を立てて。私なるほど、そういう生き方こそが、神の言うことを聞くだけではなくて、神を神と用いてくれ。親先生の言わっしゃる通りに、させていただいておかげを頂いた。そしてその、親先生の顔を立ててくれ。そこに(拍手が?)、教祖の御信心、こうして言うなら、あると思うんです。まあ、今日は私そのことをね、あの聞いてもらったんですけれども・・・。
神の言うことを聞いてくれ、その上神を神と用いてくれ。ここんところを、皆さんが、頂いていかなければならんがです、私は、そういうお話を、(薬院?)の先生から、あの時に聞かせていただいてですね、私は教えというものは素直に受けて、それを素直に行じることだと思うんですね。もうその、ほんとに教えを素直に聞いて、素直に行じるところにですね、もうこげん気持のよかことはございませんよ。気持の良いって言うとまた、おかしかですけども、もう(こよい?)、言うならば有難いことはないということです。もうほんとにこげん気持のよかことはないです。
ちょうど、やっぱり大祭の御用の間、済んでからでした。親先生が、大坪さん明日、小倉に、親教会の御用で、教務所行かなきゃならん、まあついでながら、この頃から、火事があったですね。あの( ? )、火事になりました。私昨日ちょっと、たまがりましたがね、小倉の教会の屋根と、ちょうど(たまや?)の、(6階?)っちいうのは繋がっておる。一緒、高さが。はー、これじゃほんとにやっぱり危なかったなあ、と思うて、まあ今日その、桂先生からそんなこといろいろ聞かせていただいて、ほんとようこそお見舞いに行ったなあと私は思いましたよ。ただその、ほんあこつ言うならば、三井教会あたりは行かんでんよか、て仰るわけですね。もう、親教会、久留米教会から、行きゃあもうそれでいい。なら私どもももう行かんでよかっでしょうかて言うたら、そりゃそうばってんか、あんた行ってくれんの(笑)。それけん、あんたげに、その三井教会に、と、私が行くと、久留米の親教会が行くことになるから、そうしようと。なら、お見舞いはどげなん( ? )よかでしょうかち言うて、ほれで、さっきから久留米の先生方とも相談して、やっぱ家事にならお酒が一番良かろうということになったんです。だからもう、教務所と、小倉の教会と、親教会から、お酒を持っていくことにしたんです。それで、小倉のあちらの方で買わせていていただこう、とこう言われる。それでもうこれは( ? )申しあげたら、親教会からこれ( ? )、教務所には( ? )。ここに親教会には、こういうふうにせんならないとこう、裸じゃならん。もう先生それならそれはあの、合楽からおかげいただきましょう、もう買う事はいりません(笑)。お神酒はおかげでたくさん頂いておりますから、お供えならなんばってんか、お見舞いなら、( ? )。そりゃ、もうよかとこじゃなかばってんから、そりゃあんたげばっかりおごつかせてから、とこういうわけなんです。
ほんに今、いわば、親の顔を立てる、言うことを聞くだけじゃない、親の顔を立てておるのといっしょにですから、もうほんとにありがたくそれが言えれるんです。もうほんとに、量はたくさんのことになりました、3軒分でございますからね。( ? )の教会、久留米の、あ、三井教会、すと、ここ。それでももうほんとにあの、親先生も大変喜んで下さるし、よりも、喜ばせていただくのは、私でございます。もうほんとに有難いおかげを頂いたものであるということでございますがね。もう昨日一日、私はそういうふうに、親の顔を立てておるような、と仰る。もう親の親の顔を立てるという、言うでもなかったですけれども、結果においては親の顔を立てたことになった。
それで、久留米教会のつはあの、お金はろうてね(笑)、ならもう、うちのとだけは、ならあんたがお供えしてくれたことにしてから、親教会のとは、まあ払うけんの、とこう言うていただきましたがです、もうそれは、頂く頂かないは別といたしましてですね。ほんとにあの、こうして親の言うことを聞くだけではなくて、親の顔を立てていけるということは、ほんとに有難い、(雰囲気の出る?)ごつはないということです。
それで私は、心使わせていただきまして、親教会は親教会らしい、お酒をですね、まあ、最高の物を、( ? )させてもらいました。親教会と三井教会のだけは、あー三井教会と、櫛原の教会のだけは、( ? )して、まあ私のは、数、量も少なくいたしました。そして、品物の銘柄も、まあ、1級酒というのにいたしました。もうこれで顔が立つでしょうが。合楽の教会、三井教会、また、櫛原の教会。親先生が、私ちょっとしてから、もって来ましたから、親先生が自分で、お見舞いのあれを抱えました。もうそのときの、ほんとにあの、嬉しいご様子でございましたですね。それを見せていただいて、御用させて頂いておる、私はもっと有難い。そして、もうほんとに、あんた方はよい信者ばっかりを頂いておる。もう毎日毎日( ? )、皆が(よって?)おるけれども、今日もまた、うちの高橋さんが、(茂さん?)の車で、大型の車で、(京都?)へ行って、もう終日、( ? )で御用してくださいました。
ね、私は神様を、言わば、神様じゃない、親父の顔を立てておればです、まあうちの、御信者さんが今度は私の顔を、こうして立ててくださる。もうここんところがですね、私有難いと思うんですよ。ね、金光様の御信心は、だから、教祖の神様が、神の顔を立てる、だけではない、神を神と用いてくれ、と神様から、お礼を言われるような、御信心態度が、そのまま、私どもの信心態度でなからなければならない。そこには、ほんとに親も喜ぶだけではないくて、親よりも喜ぶのは、子供の私である、ということである。
昨日も高橋さん、御用を頂かれましてから、帰られるのは12時過ぎでございました。帰ったのは、1時ごろだったでしょうか。帰られてから、また事務所に入ってからその、いろいろな、事務の御用を12時ごろまでされました。そしてお風呂入ってから言われることです。先生今日はおかげを頂きました。もう、疲れておらんならん、はずと思うのですけれども、全然疲れを感じません。初めて、( ? )ございませんでしたけれども、私も疲れて帰るならば、運転手さんも疲れて帰るはずなです、一日、運転しとります。けれども、全然、疲れなければならないはずなのに、疲れておりません。おかげいただいとっとですばい。と言うてから、まあ言うたことでございますがね。
だからその、疲れとらんならんはずなのに、疲れていないということは、もうこれは、神様のおかげじゃない、お徳です。おかげを頂かれる、だから、それからまた何時間、事務所で、御用を頂いて帰られました。そしたら昨日、そのたまたま、東さんが、夜おいでに参ってきました。いやーそれじゃ帰りは僕が、運転させて帰らせていただこうと。高橋さんは後ろでどうぞ寝ていってください。もうそこには、高橋さんをですね、なら顔を立ててくれると言うか、神様、高橋さんにおかげを頂かせにゃおかんという、働きがありますよ。もう、これはずーっとこう続いておるものですね。私はそういう、まあ、これは、神の顔をとか、親先生の顔をとかじゃなくて、人の顔を立てておれば、自分の顔は神様が立ててくださるもんです。自分が前にこうでしゃばらなくても、私はこげんしますと、ああします、こうします、口ばっかり。もう人の、( ? )、口じゃない、体じゃない、心から、そのことを成就していかれるということがです、私はお道の信心だとこう思うのです。
もう一つ、お互いがですね、素直に教えを頂いて、素直にそれを守るということは、こんなに気持いいことはない。もうそれこそ疲れなければならんはずなのに、疲れもせん、というように、気持が良い。ね、気持が良いと言うことは、こんなに有難いことはないということ。そういう、私は、いただきかた。今日はそのことを、申しますと同時に私は、教えを素直に守ると言うことは、こんなに気持がよく、いいことはないと言うことを、大体申しましたのです。教えを本気で守る。商売人じゃけん、こんくらいのことは、ね、例えば、商売人じゃからこんくらいの駆け引きはもう当たり前、と言うておったらいつまでも、神様の本とおかげに、心に触れることはできません。神様がああ教えてくださるから、こう実行させていただいたら、もうこげん気持よかことなかったと言うてから、今度、そのお得意さんがです、もうあそこから買うならもうこげん気のよいことない、と言うようなおかげになると私は思うんです。これは商売だけのことじゃありませんけれどもです、教えを素直に、私は受けて、素直にそれを、守らせていただくことは、こんなに、気持よかことはないということ。どうぞ。